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2011.09.05

第二回法と教育学会in学習院大学

昨日、法と教育学会に参加しました。

今回は台風が来ていたこともあり、東京まで行くのはとても至難の業でした。

「敦賀以南は鈍行も動いてませんよ」と駅で言われた時には諦めかけたけれども、福井から上越周りでなんとか東京まで行きました。

以前父が北陸新幹線の是非について「太平洋側と日本海側で一本ずつ東京と大阪を繋ぐルートがあった方がいい、という考え方があるんや。どっちか潰れてもどっちかで東京までいけるやろ」といってて、「どっちかが潰れるとかどんな日本沈没よ」と思っていたのですが、今回そのありがたみがわかりました(笑)

余談ですが、帰りは名古屋周りで福井まで帰ったんですが、米原でしらさぎがまたしても大雨で止まっているというアクシデント(笑)家に着いたら12時でした。

橋本先生は飛行機で雨雲の上を通って快適に福井まで帰ってこれたそうです。「お荷物学生」らしく先生のキャリーバッグで今度から俺も一緒に運んでもらおうかな(笑)

今回の学会には元・東京学芸大学院生で現在東京都にて教鞭を執られていらっしゃるaoimoriさんも参加されていたそうです。ブログのリンクを載せておきます。
「青い森のねぷたい日記」2011-09-04
http://d.hatena.ne.jp/aoimori/20110904

私はaoimoriさんと面識はないので、来ていたならお会いできたら良かったな~と後悔。



今回の日記では講演と、分科会について概略と私の感想を述べます。(シンポジウムについてはaoimoriさんがめっちゃ書かれているので、そっちを見てください)

メインの講演ではロールズの翻訳で有名な川本隆史先生でした。

これを聴きに行ったといっても過言ではないのですが、お人柄の良さが滲み出ているようなお方でした。

講演の内容は、ギリガンやノディングスを取り上げ、ロールズの「正義」に対してノディングスの「ケア」も考えるべき、その対立関係の整合性をどうするか、という趣旨でした。

コールバーグの示した物差しは男性中心的な物差しであり、その物差しで見たら子どもも女性も「発達の失敗」である、だからより高次な物差しを作るべきだ、と主張したギリガン。

ハインスのジレンマ(高い薬を盗んででも妻を救うべきか否か、というジレンマ)に対し、男性は功利主義等の考え等を用いて(薬売りの受ける損害よりも妻を失う損害の方が大きい。薬売りはもっと金持ちからふんだくれる。妻の命を救う方が大切である。など)スラスラ答えるが、女性はスラスラ答えれない。

それは女性の発達が未熟だからではなく、「そういった事態」の前と後について考えをはせるからだ、というのがギリガンの主張。

なるほどなぁ~と思った。

私はその時、内田樹先生はコップから水があふれる様を例にペニー・ガム理論を取り上げ、批判しているのを思い出した。
コップに水がすりきりまではいっていて(福井弁で「つるつるいっぱい」)、あと一滴水が落ちて、その結果コップから水があふれたとしても、その原因は一滴の水だとして問題視するのがペニー・ガム理論である。でも「そういった事態」におちいる前におちょこ一杯ぶんでもコップからすくい出しておけばよかったのであり、世の中にある問題はそのようにいくつもの要因が絡まって問題として表出しているのであるから、簡単に原因を特定して解決することは困難。しかし、絡まったイヤホンのダマを一個一個ほぐすように、一個一個の要因は小さなものなのだから、その小さな要因から手をつけていくべきだとするのが内田氏の考え方です。(以前もブログで書いたかもしれません。重複してすいません)

川本先生の講演の内容をすべて書き出すようなことは(大変なので)しませんが、凝り固まった私の頭に、風を通してくれたような心地でした。

この講演をどう止揚するかは今後の私の人生における課題になってきそうです。



分科会は、よくお世話になっている野坂先生の発表をききました。

「価値判断」が私にとって喫緊の課題なのですが、ここでは「利益衡量」の話が出ていました。

ある解釈AをするとAは得をし、Bは損する。ある解釈BをするとBは得をし、Aは損する。
どっちにしろ損得がでるなら、最大多数の最大幸福になるよう(利が大きく損が少ない)ものを選択しよう、という風になりがち、といった話。

もうすこし資料を精読してから、このブログにまとめようと思います。ので言及はここまで。
是非修士論文にいかしていきたいです。



分科会の質問コーナーは第一分科会(司会は東京学芸のW先生)にいました。

でた質問①
「法教育なのに、子どもの権利条約は扱わないのか」
といったご質問が弁護士の方から挙がっていました。

私が思うに、それは扱えばいいとは思いますが、それが目的じゃないだろうなー。と感じました。

「法教育って何か一言で説明しろ」と言われたら、私は「ルールづくり」だと思います。

自分たちでルールを吟味し、必要があったら改変していく、そういった社会に対して参画していく態度の育成が「ルールづくり」であり、法教育の目的でもあると思います。

ですので、内容知ではない。
教材として、道具として、ネタとして「子どもの権利条約」を扱う分には良いのですが、「子どもの権利条約がわかる授業」になったら、それは法教育ではない。

「ルールづくり」が法教育だから。

でた質問②
パターナリズムになるのではないか。小学生の発達段階を鑑みたら、法教育は難しいのではないのか。

これに対してW先生は「小学生で法教育できるの?」「道徳教育化するならやらなければいい」と話していました。

私は、扱うものによるだろうなー、と思います。子どもでも「なんでこれってダメなの?」とおもうような題材を扱うことができれば、できるんではないでしょうか、と思います。


でた質問③
クラスのガバナンス、統治はどうするのか。学校のルールを変えるのか、クラスのルールなのか、みたいな話。

題材のひとつに、「シャープペンシルはどうしてダメなのか」というのがあって、禁止の理由が「筆圧が薄い」「シャーペンで遊び始める」というものらしい。で、このルールを変えることはガバナンスとしてどうなん?みたいなこと言ってました。

その話を聴いて、私は「生徒会活動で提案すればいいんじゃないか」と思いました。
私が中学校の時、実際に生徒会活動で校則が変わりました。それまで鉛筆だったのがシャーペンに。
生徒会に立候補する生徒もマニフェストで「シャーペン自由化」を掲げての当選でしたし、任期中に校則改変に至りました。
そういった手続き的正義に則り、正式な手続きの下で校則を変えていくことで、「ルール作り」ができるのではないか。

法教育はリーガルシティズンシップまでを射程に入れています。
リーガルシティズンシップって何?と言われれば、それは要するに最終的には「行動にまでうつす」ことを狙っている、ということ。
社会科の授業で「ルールづくり」を学ぶことは、その「準備体操」のようなもので、社会科で充分に「ルール作り」をすることのノウハウを学び、その後学校内のことならば「生徒会活動」、地域のことならば「市長への嘆願書提出」という形をとれないだろうか。

「準備体操」という言葉は語弊を生じさせるものですが、いうなれば教育自体が社会に出る前の「準備体操」なのだから、理にかなっている。

これは私のただのアイデアでしたが、もしかしたらヒナがかえるタマゴかもしれないので、ちょっと大事にもう少し温めてみようと思います。

司会のW先生からは総括として
①日常で学べるから、授業としてやらなくていいんじゃないの?
②子どもの興味がわかなかったら子どもはやらないんじゃないの?
という問題提起をしていました(30秒ほどで)

非常に小気味のよい、鋭いご指摘だと感じました。

例えるならばそれは、囲碁の試合をしている横から、並べた碁石版を台ごとひっくり返すような鋭さでした(笑)

今後、それを考えながら、修士論文に取り組もうと思います。

天気は大荒れ、また体調はあまり優れませんでしたが、やはり身銭をきって参加して良かったと思いました。

また大学に戻ってから、橋本先生に総括してもらおうと思います。

先生、よろしくお願いします。

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